【17体】即神仏とは何か?日本に存在する即神仏(ミイラ)

即身仏とは?

即身仏は主に真言宗の僧侶が、民衆を救うために肉体を持ったまま仏に成ることを望み、肉体をミイラ化したものです。我々は本来、誰でも仏に成りうる可能性を持っており、現世において修行を重ねることによって、来世を待たずにして仏様に成れるという教えです。
僧侶が米や麦などの穀物を食べない「穀断ち」などの厳しい修行を経て、土に掘った穴の中に入って「土中入定」し、3年後に掘り起こされ即身仏として安置されるというものです。こうして未来永劫まで残るミイラの姿となって、人々の救済を祈り続けようということである。即身成仏とは、真言密教の根本思想であり、「対日如来との一体化により現身のまま仏陀になる。」ということです。

西生寺「弘智法印」(新潟県長岡市)


現存している即身仏の中では最古のものと言われ、即身仏とは、生きながら仏に成るという「対日如来との一体化により現身のまま仏陀になる。」ということであるのを伝えています。
「弘智法印仏」だけが、江戸時代からさらに300年さかのぼった室町時代前期の即身仏で、今から660年前のものとされています。現在全国に約24体の即身仏がお祀りされています。そのほとんどの即身仏が江戸時代に修行された行者さんのものです。
弘智法印は鎌倉時代に産まれ、子供時代にお寺に預けられて僧侶となり、お寺の住職まで務め、仏教伝道の旅で全国を行脚して各地で寺院を建立、高野山でも修行し、その後「即身仏となる決意」をし、西生寺の奥の院にたどり着き修行の地と決め、修行ののち即身仏となりました。

住所〒940-2501 新潟県長岡市寺泊野積8996
公式サイト西生寺 – 新潟県長岡市寺泊|日本海を一望の景勝地

大悲山 観音寺「全海上人」


全海法師。俗名、長谷川善吉。深戸村で産まれました。関ヶ原の戦いの2年後、徳川幕府成立の1年前という事になります。善吉が信仰に目覚めたきっかけは20代半ばを過ぎて身内の相次いだ不幸でした。両親が死去。ついで2年後には妻子が世を去ったのです。世の無常を感じて出家し、湯殿山で修行を積むこと18年。晴れて全海と名乗ることとなりました。その後帰郷し、全海法師が心血を阿賀野川の改修に注ぎ、危険な岩場を削り出し、亡くなるまでに完成させました。
全海法師は、亡くなる3年ほど前から死の準備に取り掛かり、断食の行に入り、五穀を断ち、昼夜を問わず常に端座の姿勢を崩さず、即身仏として奉られました。

住所〒958-0864 新潟県村上市肴町15-28
公式サイト仏海さまの観音寺 – 大悲山観音寺

真珠院「秀快上人」(新潟県柏崎市)


「秀快上人」は、真珠院第22世住職にあたります。9歳で真珠院第20世秀精上人の弟子と成り、僧名を「泰音秀快」と改め、修行に励みました。享保18年、真言宗の豊山派総本山長谷川寺に留学して大学僧に就任するなど、精励に努め、帰郷し真珠院の第22世住職として内外の教化伝導にも努めました。50歳で深く即身仏としての入定を決意し、五穀を断って、菜食で修行する事10年、当院裏山の堂宇の石室に入り、真言を唱え五鈷杵(ごこしょ)をかざし、鈴を鳴らし続け入定されました。享年62歳です。
入定堂は安永8年に建立。堂宇拝殿の格天井の絵は、岡野町の画家村山致道の作であり、また同じく、梵字は乙宝寺の高僧瑜伽の書です。日本仏教の到達した極点を物語る証拠として、学問的にも信仰上にも貴重なものと云われています。

住所〒949-3723 新潟県柏崎市西長鳥甲502
公式サイト真言宗豊山派 真珠院

本明寺「本明海上人」(山形県鶴岡市)

本明海上人の前職は下級武士でした。39歳の時に藩主・酒井忠義が眼病に侵され、眼病平癒の祈願をするため、他の5人と湯殿山に代参を命じられて、注連寺で祈祷を受けて湯殿山に向かいました。本明海上人はそこで霊感を受けて、そのまま居残り勤行を続け、帰らずそのまま注連寺で出家し、行人になりました。そのため、罰として妻子追放など厳しい処分を受けました。
その後藩主の病は治り、藩主の病が治るようにと祈ったとして、本明海上人の功徳が城まで聞こえ、罪は許され寺領70石が寄進されました。本明海上人は、即身仏になるべく修行し、「私が即身仏になるからにはどんな悩みにも寄り添い、どんな願いも叶えましょう」と、本明海上人は生前言い残したそうです。

住所〒997-0402 山形県鶴岡市東岩本字内野388
公式サイト湯殿山信仰の極み 即身仏「本明海上人」安置

海向寺「忠海上人」「円明海上人」

忠海上人は、元禄10年山形県鶴岡市鳥居町の庄内藩の武家で生まれました。中興初代住職として、延喜3年に海向時の中興を成し遂げ、50歳になると、人々の苦しみを救い、願いを叶える為に、自ら木食行者となって即身仏になることを決意されました。
円明海上人は、明和4年、山形県東田川郡栄村家根合の佐藤六兵衛家に生まれました。海向寺九世住職を経て、50差で即身仏になることを決意されました。即身仏のお名前の「海」という字は、真言宗の開祖弘法大師「空海」の得を慕って用いたもので、「海号」と呼ばれています。
今も海向寺にはお二人の即身仏が、江戸時代からずっと座り続け、人々の安寧と苦しみの救済を祈り、この世が仏の世であることを指し示し続けています。

大日坊「真如海上人」

真如海上人は朝日村越中山に生まれ、純真な性格の持ち主として育ち、幼少の頃より仏教の教えに心をひかれ、青年時代よりは仏門に帰依出家し一生を捧げました。弱肉強食の不平等社会を仏国楽土たらしめ衆生を救うことを誓願なされ、湯殿山大権現を信仰し本寺大日坊を拠点として各方面の強化につとめ、寺を建て慈悲を施して社会福祉につとめられたため、徳望一世に高く生き仏として多くの人々より尊ばれました。一世行人を誓い生身のまま土中に入定するまで七十余年の長い間難行苦行を積み重ね日本一の即身仏となられました。湯殿山は大同二年四月八日弘法大師の開山で、湯殿山大権現と称し奉り、両部大日如来の鎮まる霊地です。

注連寺「鉄門海上人」

鉄門海は21歳の時、注連寺で仏門に入り、30歳頃から湯殿山で修行を始めました。東北を中心に、鉄門海、あるいは鉄門上人と書かれた碑が195個もあります。「鶴岡の漁港がある加茂地区、江戸時代は幕府の領地として栄えた大山地区を結ぶ加茂下峠に、新しく道を作ったのが鉄門海。手弁当で合計1万人のボランティアを動員して、3年がかりで完成させました。
「秋田では新田開発の指揮を取った」、「1820年には大発生して社会問題になったケダニの退散祈祷」、「省内の漁村ではタコ釣りの仕掛けを教え、タコ漁の道具『テツモンカイ』」が残っています。鉄門海上人は、カリスマ的宗教者または指導者として、人々の信仰を一身に集め、即身仏になられた今も私たちの幸福を祈り続けています。

南岳寺「鉄龍海上人」

即身仏として安置されている「鉄竜海上人」は、伝説の多い人物です。若いころに人を殺め、放浪ののちに南岳寺住職・天竜海に救われて、南岳寺に入門。法連寺などで修行を行い、南岳寺が消失したのを機に寺に戻り、南岳寺を再建。眼病が流行して、悩む人々のために自らの左目をえぐり出して、龍神に捧げて祈願したり、峠越えの難所だった加茂峠に道路を開通させる工事の責任者として、当時として大変珍しいダイナマイトを使い、難工事を無事完成させたりと、人々を助けるために様々な功績が語り継がれています。
55歳で即身仏を志し、湯殿山仙人沢に籠って1000日の木食修行などの難行苦行を達成され、1881年62歳で入定されました。

蔵高院「光明海上人」

光明海上人の生い立ちは現在も謎に包まれており、明らかになっておりません。空海の思想を受け継いだと言われており、1854年に入定されました。
遺言では、1000年後に掘り上げてほしいと言っていたそうで、昭和53年に旧陰部落から発掘調査され、光明海人上の即身仏が見つかりました。白骨化が進んでおり、頭蓋骨と腕の骨だけが見つかったそうです。
こちらは、日本で唯一、子孫が個人で管理している即身仏になるそうです。蔵高院寺に祀られており、山中には入定の跡として石碑も建てられています。電話で予約すれば、ご住職様から、即身仏発掘の貴重な話が聞けますよ。

明寿院「明海上人」

明海上人は、1820年に、山形県の百姓として誕生しました。氏名は春次ということも判明しています。
明海上人は、13歳の頃から目の病気を患い、5年間治療を施しましたが、18歳で失明してしまいました。そんな自身の境遇がありながらも、飢餓や病気で苦しむ人々を救いたいという気持ちから、厳しい修行に挑み、即身仏になることを決意したそうです。
1863年に44歳で即身仏に入定され、1866年に掘り起こされて、明寿院に現在は安置されています。明海上人の子孫の松本さんが、個人所有として管理されているそうで、小さいながらも、とても綺麗に建設されています。

観音寺「仏海上人」

仏海上人は、俗姓近藤庄次郎といい、1828年に生まれました。16歳の時に、湯殿山注連寺に入門、2年後には本明寺に弟子入りし、15年間居住しました。1862年より木食行に入り、3年間、湯殿山仙人沢で水行、滝壺の座禅などの荒行をしながら山籠していました。
下山ののち、観音寺や注連寺の住職となり、神社仏閣の再興や、貧民への寄付などを行っていました。これらの功績から、新潟知事より、感謝状、賞状が7回も贈られています。
1903年に76歳で入定、3年後に掘り起こすように言われていましたが、墳墓発掘禁止令が発令されていたため、掘り起こされたのは1961年になりました。仏海上人は、日本最後のミイラ志願者となったそうです。

總持寺「石頭希遷」

700年に誕生した中国の唐代の禅僧です。六祖慧能に師事していましたが、遷化にあい、青原行思のもとへ移ります。石頭とは変わった名前だと思うかもしれませんが、これは、南獄衡山の上に庵を編んだため、「石頭」と称されるようになったのです。門弟子は多かったようですが、当初はさほどの知名度もなかったようです。しかし、現在残っているのが南州禅の系統だけなため、それに属していた彼は、かなり大物だったといえます。
791年に、91歳で南台寺で入定しました。1911年に、お寺が放火により焼失しましたが、研究家の山崎さんが、三井物産の船に救出したそうです。現在は、大本山總持寺に祀られています。

阿弥陀寺「弾誓上人」

禅誓は尾張国出身で、9歳で出家後、諸国を行脚して修業した後、阿弥陀寺に来ました。1613年に、62歳で示寂しました。彼は、体質を樹脂化し、自ら石棺に入って即身仏になったそうです。現在は、阿弥陀寺本堂脇の、石棺の中に安置されています。
日本で最南端、最西端の即身仏とされていますが、体の保存状態が良くなかったためか、一切公開されていません。同寺には、禅誓が自ら髪の毛を植え込んで作ったとされる、「開山禅誓の像」も安置されています。
禅公窟が、禅誓を慕って参禅したと考えられています。彼も即身仏になりましたが、現在は残されていないとされており、一般には公開されていないそうです。

貫秀寺「宥貞法印」

弘智法印宥貞は、1591年に出雲に生まれ、23歳で出家し、仏門修行の身となりました。師匠が亡くなると、修行の地を求めて旅立ち、高野山では、金剛三昧院で真言密教を修学し、小僧都の位を得ました。その後、小貫東永山観音寺の住職となり、92歳の時、当時流行していた伝染病から人々を守ろうと、村人に薬師如来の十二大願を説いた後、入定したと言われています。このような例は大変珍しく、国内でも類を見ないといいます。
石川県の貫秀寺に安置されていましたが、東日本大震災によって倒壊し、現在は薬師堂として修復されています。

妙法寺「舜義上人」

絹笠城主三浦資澄の子孫として1608年に誕生しました。氏名は音松ということが判明しています。嫡男にも関わらず出家し、鎌倉の宝戒寺38代目住職となりました。養智院という草庵を建築し、3000日の木食行に挑みました。
入定し、即身仏になった背景には、法華経による阿弥陀信仰だそうで、仏となり、民衆を救いたいという気持ちがあったそうです。見つかった時には、綺麗に座禅を組んでいたと言われており、舜義上はこうして、関東唯一の即身仏になったのです。
現在は西生寺の霊堂に祀られており、12年に1度、子年の一か月のみ御開帳されるそうです。

横蔵寺「妙心法師」

1779年に美濃国に誕生しました。9歳の時、聖護院宮内正行院の弟子となって修行しましたが、師が遷化し、父母も失い、故郷を離れて、別当亮寛の弟子となりましたが、諸国を行脚しました。1813年に鹿留村を修行の地と定め、御正体山を開きました。その後、相模方面に信者を広めていき、1815年に山籠で断食をして入定されました。御正体山は信仰を広めていきましたが、明治維新の修験宗廃止の官令によって、信徒は追い払われ、衰退していきました。
現在、即身仏は横蔵寺に安置されています。罪深い人を救世したいという思いで即身仏となった妙心法師は、口を開けた状態で保存されており、その口からは深い教えが聞こえてきそうです。

瑞光院「心宗行順」

1637年に誕生し、50歳で入定しました。瑞光院の裏山で土中入定し、埋まってから7日間は竹筒から息をして生きていたそうです。
心宗行順は結婚し、妻子もいましたが、自宅の火災により亡くなってしまいました。その無念を晴らすため出家し、修行を積み、安全祈願の巡礼をしていました。即身仏になるために、なんと湯のみ茶碗にそば粉一杯しか1日にとらなかったそうです。
現在は、山中にある小屋のような場所で安置されており、長野県唯一の即身仏となっております。4月29日と敬老の日のみ御開帳され、4㎏の鉄下駄で走る、行者健脚レースが行われたりもしています。




新編 日本のミイラ仏をたずねて

断食、木食、五穀断ちなどの過酷な修行を繰り返して痩せさらばえた行者が、自らの身を地面に沈め、「土中入定」を果たす。かつて、自らがミイラ化することで、衆生の救済をめざした僧侶たち、すなわち即身仏がいた———。国内で確認されている即身仏・1…

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